※ 高専時代
コン、と雰囲気に似合わない小気味のいい音を立ててチョークが黒板から落ちた。放課後の教室。は、自身ともう一人しかいない教室で、いやにその音が響いたように錯覚する。
瞬間的に、視線をそちらに遣ろうとしたものの、自らの足元に確認の視線を向ける余裕すらも今の自分にはないことに、は唇を噛む。不意に側面から追い詰められ、思わず背中をついた黒板は、これ以上の後退を許してはくれない。背中に当たる黒板の感触をは苦々しく思いながら、本当に苦々しく思うべきは、こうしてを追い詰めた目の前の後輩だと思い直す。油断したといえば、そのとおりだった。「なに?」と小さくは問いかけた。続けて問う。
「どうしたの?」
もう一人の人物、後輩――五条悟に対し、何も知らないふりをしてやり過ごすしかない。
「やだなあ。今になってもとぼける気?」
「とぼけるも何も。いきなりどうしたの? 大丈夫?」
今ならまだ言い逃れできるよ、と消極的な意味を含ませる。相手を見上げる気はない。いくらサングラス越しだろうと、目を見れば、圧倒されることが分かり切っているから。それにと五条との身長差では無理に見上げない限り、視線がかち合うことはない。問題はこの場からどう逃げ出すか、である。の苦慮を眺めながら五条はくつくつと喉を鳴らす。こちらが用意した逃げ道なんて堂々と無視されて、明らかに遊ばれている気配に、む、とは軽く眉をしかめる。
「やっぱり、とぼけているのは五条君でしょう」
「その言葉、そっくり返すよ。こうなった時点で負けでしょ? せんぱい」
「勝負なんてしてません」
「ともかく――」そう言いかけた途端、五条からのプレッシャーが増す。を追い詰める五条は、両手を黒板のへりに置いて、にやにやと笑っている。これ以上後退ることができないのに、それでも動こうとしたせいで髪の毛から不快な音がする。ザリ、との髪の毛と黒板に残ったチョークの粉と擦り合わさる。
「ともかく、掃除も終わったから早く帰りたいの」
「帰るって寮にでしょ? このまま一緒に帰ろうよ」
「い、いやです」
「はは、なんで敬語」
は油断したのだった。五条からの好意というには軽薄な、いわば好奇心にはうすうす気付いていた。気付いていたけれど、何も起こらないと思っていた。それは、先輩と後輩という関係がそんな好奇心によってバランスを欠くなんて思っていなかったからだし、バランスを欠くにしたって、もっと順番というものがあると思っていたからだった。
教室に残って少し残っていた課題をこなしていたら、五条がやってきた。神出鬼没な五条のことだから特に疑問には思わなかった。目的の人物がでもないと思っていた。そのため、ちらりと五条に目をやって「五条君、こんにちは」、「お疲れ、せんぱい」という挨拶だけを交わして、は五条の存在を気にせず、最後に黒板の掃除をしようと思って席を立ったのだった。今となれば、そこで五条が去らなかったことを疑問に思うべきだったと思う。「手伝うよ」そんな殊勝な言葉と共に五条が近づく気配がする。「大丈夫だよ」振り向きざまそう答えた瞬間には、五条が目の前にいてを捕えていたのだった。
「せんぱいの制服は、スカートから覗く足がいいよね」
「はい?」
「歩く姿とかすごくいい」
「なっ……」
思わず、かっと顔に血が上る。最強の名前を欲しいままにしている術師の、こんな男子高校生としての単純な欲を感じると、何やら気まずい気持ちでいっぱいになる。
「いかがわしい目で見ないで、君は後輩だよ」
「知ってるよ。先輩ってのがいいよね」
「人の話を聞きなさい」
「せんぱいに放っておかれるこの可哀そうな後輩」
「いま、一方的に追い詰めているのは誰なの」
「うーん、俺かな」
五条は密やかにカラカラと笑った。黒板のへりにつかれた手が動いて、の耳朶をそっと撫でた。頭の上から声が降る。「つむじ見るのにはもう飽きたって言ったらどーする?」、耳朶から顔の輪郭を進み、その手はの頤に添えられる。
(これは、駄目なやつだ)
「五条君、持ち上げでもしたら私の首が折れる。本当にいい加減にして」
「大丈夫、首は折れないし、かがんであげるよ」
「そうじゃない」
「ほんとに素直じゃないんだから、はいはい可愛い可愛い」
の頤がぐっと持ち上げられる。案の定、と五条の身長差から大きく五条を見上げる形になった。そして、合わすまいと思っていた瞳がサングラス越しに映りそうな瞬間、視線を落とした。五条の瞳に映る自分の顔こそ見たくはない。もし、万が一、見るに堪えない情けない顔をしていれば、一体どうすればいいのか。
「ほら、折れなかった」
「からかわないで」
「でも俺にも興味あるでしょ。俺もせんぱいに興味がある。そしたら、することはひとつで、みんな幸せ、素晴らしい話ってやつ」
五条が言うふざけた内容は耳を通り抜けていくが、感じる視線に、頭の芯がしびれるような感覚に陥る。宣言どおり五条がこのまま体勢を下げてかがんだなら、息と息が合わさる距離にまで近い。そのシチュエーションが孕む刺激に、五条が健康な男子高生なら、も花の女子高生である。今さらながらにドキドキと心臓が暴れだすのを感じる。
「俺はしたいよ。ひとりじゃ何もできないでしょ?」
不意に五条が体勢を下げる。は息を呑んだ。唇に、と先走った思いと裏腹に、五条の唇が触れたのは、の額だった。
「キスでもされると思った? 言ったでしょ、寮に一緒に帰ろうって。ま、俺は今ここでしてもいいんだけど」
「……っ後輩に好きにされるなんて……。このまま死にたい」
「え。やる前に死なないで」
「下品すぎるでしょ」
「下品って、そう考えるせんぱいがやらしいんじゃないの?」
「は?」
「何すると思ってたの?」
「ーーそれは」
「俺は、寮に帰るまでの道すがら、ドキドキ青春デートでもどうかなって考えてただけなんだけどなあ。ま、せんぱいがそれじゃ足りないっていうなら考えてもいいけど」
挑発的にほくそ笑む五条の瞳に映る自身の顔は、とんでもなく情けない、初めて恋を知ったような真っ赤な少女の顔をしていた。
銀河の上じゃ遊べない
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