仕事終わりの午前八時。どうして午前八時なのだろうとは思う。世間様にはもう朝がやってきていて健やかな一日の始まりだというのに、自身はこうもくたびれている。健やかに逆行する不健康。が重いため息を吐きながら、疲労のせいか働かない頭でぼんやりとのサラリーマンや学生が行き交う交差点を歩いていたら、いきなり、手のひらに感じる温度があった。ぞわりと、徹夜明けでどこかフィルターがかかったような頭は不明瞭に温度を緩りと伝える。
 これがひったくりなら手のひらに温度を感じることはないし、肩にだらりと掛けていたトートバッグを奪っていくのに、どうして持っていない方の手を握られたと思えば、あれよあれよという間には黒ずくめの怪しい男に黒塗りの車に押し込められていたのだった。そうして聞こえるのは、この朝にふさわしい軽快な声だ。

「おはよ、

 手を引かれて座っているのは車の後部座席。ひそかに目をやれば運転席にはやはり伊地知さん。私に負けず劣らず可哀想な人である。
  
「わぁ、おはようございます。五条先輩」

 まるで感情のこもっていない感嘆符。それが自らの口から吐き出されたと思えば、目の前の学生時代からの先輩である五条悟の唇がにやりと弧を描いた。そもそも唇しか見えていない五条の表情は分かりにくいはずだ。それなのに本人の感情表現が豊かなおかげで、その纏う雰囲気から、彼が今何を考えているかはある程度分かりやすい。この人はいま、ご機嫌がよろしいようだ。
 そんなことを考えていると、車の奥に座った五条とその隣に座ったの間にはらりと黒い布が滑り落ちる。が伺うようにちらりと目をやれば、自らの目を覆う黒布の結びを解き落とした五条の、その透き通る髪色と同じ睫毛に縁取られた瞳がこちらを見ている。
 見たことがないはずもないのに。一瞬、は、ふと息を呑んだ。いや。心の中でゆっくりと頭を振っては茶化すように応える。

「まあ、美しいご尊顔ですね、今日も」
「まあね」
「見せびらかすために布を取ったんですか?」
「そうだとしたら?」
「美は世界共通ですから。五条先輩でも美しいものは美しいですよ。鑑賞に値します」
「相変わらず容姿については素直に褒めてくれるよね、は。可愛くないけど可愛いね」

 よしよし、とでもしたいのか五条の手がの頭を撫でる。しかしながらデリカシーが豊富ではない男はわしわしとの頭を揺らす。それは徹夜明けのの頭を芯から揺らすのには十分だった。かき混ぜられた意識の中から眠気が急浮上する。は自覚する。自分は今疲れているのだ。すぐにでも寝具に埋もれて眠ってしまいたい。呪霊も世の中の不条理もすべて忘れて眠ってしまいたいのだ。

「五条先輩、私いま疲れてるんです」
「ふーん?」
「呪霊との戦いが長引いて。知ってるでしょうけど」
「どうせ雑魚いやつでしょ?」

 だから? とでも言わんばかりに美しい顔がにやりといやらしく笑う。頭をわしわしと撫でていたはずのその指がゆっくりと頭の地肌を伝う。ざり。と、その音がして、そのまま指は髪の毛をするりと掬って這っていく。
 思わず「嫌がらせして楽しいですか」と嫌味に呟けば、五条はにこりと顔面に喜色を浮かべた。

「今から超豪華な朝食に連れて行ってあげるよ。じゃ絶対食べられないやつ」
「要りません」
「えー? 今を逃すと絶対絶対食べられないよ?」 
「わざとやってるでしょ?」
「おっ、ちゃん怒っちゃう五秒前?」

 呆れと怒りとどうしようもない怠さから五条を睨みつけると、五条は目を細めて嬉しそうに笑い声を上げた。その声が耳障りでは顔をしかめる。

「僕、のその表情、大好き!」
 
 五条はひとしきり笑ったあと、目尻に浮かんだ涙を、その骨ばった、悔しいことにこれも美しい指で拭った。きらりと指についた涙が薄く反射する。その様子を見るにつけても、またしても目を奪われることに気づいて、は気まずく目線を逸らす。

「朝ご飯のあとは、都会のオアシスから見える超絶景を見に行くツアー」
「解放してください」
「で、その後はこれまたとっても美味しいと有名な昼食でしょ?」
「聞いてませんね?」
「昼食のあとはの行きたいところに連れて行ってあげるよ。僕とのデートだ」
「私は徹夜明けでそれどころじゃありません。もうくたくたで、早く思考を放棄したいのに――」

 ふいに五条の手が伸ばされる。手が伸びてきた、と思うときにはもうその両手にの顔が包まれていた。

「欲しいものをあげるよ」

 五条が怪しげに微笑みかける。”欲しいもの”その単語に、ぴくり、と自らの指が僅かに震える様をは疎ましげに自覚する。

「ほらほら徹夜明けで何体もの呪霊と連戦して、いきなりこんな状況になって戸惑ってる。思考を放棄したい頭で考えて? 欲しいものはなあに?」
「くそ、五条先輩が仕組んだんですね」
「くそなんて言わないの。ね、僕と一日中一緒にいられてこんな幸せなことはないでしょ?」

 ふふふ、と鼻歌さえ歌いそうなくらい上機嫌な五条を尻目に、きりり、とは唇を噛む。つられて固く握りしめていた手に気付いた五条は優しく、それでいて強引な仕草でその手の強ばりを解いて、の瞳をのぞき込んだ。
 これは遊びだ。いつもの遊びの延長。それをわざと思考能力のない状態に追い込んで、風味を変えているだけの話。私が口を滑らすのを待っている。

「家に帰って寝ます。私の願いはそれだけです」
「ふーん? 素直じゃないね」

 じゃ、いいや。そう呟いて、五条は、の家に向かうようにと伊地知に声をかける。そうして飽きたように車窓に目をやった。それでもご機嫌なのか鼻歌を歌っている。
 それを尻目には自身側の車窓を覗き込む。相貌を反射する窓ガラスにはひどい顔の自身が映っていた。声に出さないように唇を動かす。窓ガラスに反射するも同じ言葉を繰り返す。”欲しいもの”。
 全部くれる素振りを見せたって一番欲しいものは手に入らないのだ。今日も遊ばれただけ。遊び相手としては十分役目を果たしたのだろう。は座席に沈みこむように身を投げ出し、目を瞑る。
 本当はあなたが欲しいのに。
 そして、呪う。それを知っていてこうして遊ぶ五条悟なんて滅びればいいのに。



何億光年のおあずけなの


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