私は後悔していた。
とは言いつつ、全く後悔しきれていない自分がいることに対して、若干の苛立ちが付き纏う。さらには、自分では認めてはいけない――認めたくはない感情が心に渦巻いていることも、後悔に拍車をかけた。
認めたくないその感情というのが、期待や喜び、恋慕の情だというのだから、なおさら始末に負えない。
もし情けなさが私を死に追いやるというのなら、私はすでに死んでしまわなければならないだろう。
けれど結局私は死を選ぶことはなく、浅はかに彼へ会いに行ってしまうのだ。
――ヒールがアスファルトを蹴り上げる。どこか熱気が漂う夜の街は、そんな私の後悔さえも飲み込んでしまう。
このまま集合場所についてほしいとも、ついてほしくないと思いながら、私は歩みを進める。
彼のために選んだ高いヒールが、カツカツと小気味いい音を立ててアスファルトの地面を叩いている。
「おっ、待った?」
私の気持ちの葛藤が行動に現れるのだとすれば、遅刻でもすればいいものを、結局、律儀に時間よりも早くついてしまった私は彼を出迎える側になってしまっていた。「さっきついたばかりです」と常套句を述べれば、彼は人好きのする笑みを浮かべて帽子を脱いだ。ホテルの最上階のバー。いつもの待ち合わせ場所だ。
「いつものふたつ」
彼が慣れたようにバーテンダーに注文をする。“いつもの”この単語が、私達の関係性を表すひとつの尺度でもある。
「それで、今日はなんか面白い話ある?」
「隠神さんのお気に召しそうな話がちらほら」
「へえ、そりゃ楽しみだ」
「お礼は弾んでくださいね」
「できる範囲でな」
隠神さんがニヤリと笑う。探偵業を営む彼と、怪物達に纏わる情報を取り扱う私が出会うのは必然だったのかもしれない。彼には優秀な情報屋がすでについているようにも思えたけれど、どうにもムラがあるのか、こうして私にお誘いが来ることも往々にしてあるのだった。
「そういえば、新しく探偵事務所に屍鬼と人間の半妖を迎え入れたとか」
「さすが話が早いね」
「――狐は怖いですよ」
「ご忠告どうも」
「楽しそうで羨ましいです」
「楽しそう?」
「私も隠神さんの事務所に入れてほしいくらい」
横目でじとりと見る隠神さんは、困ったように苦笑する。
その様子を見て、私は今日も失敗したことを投げやりに悟る。
はいはい、今日も失敗。懐には入れなかった。心の中でため息をつきながら、私はあてつけに言葉を投げつける。
「無垢な少年になって隠神さんの探偵事務所で青春を謳歌しながら強くなっていきたかったです」
ま、無理な話ですけど――と付け足せば、一瞬、隠神さんは目を瞬かせたあと、苦笑いを濃くした。
「がそんなふうに思ってたなんて知らなかったよ。ありがたいけど、うちには三人で手一杯だな」
「ふーん、じゃあもっと早く言えばよかったなぁ」
「今日はグイグイくるねぇ」
「そういう気分なんで」
なにせ集合場所に来るまでにあれだけ自問自答したのだから、今日くらい突っかかったって許されるだろう。グラスを指で弾きながら、自らの不機嫌さと戦っているときだった。「でも」という隠神さんのささやき声が聞こえる。
「無垢な子だったらできないことをするんだから」
人好きのする笑みがこういう時だけ男性の色気を孕む。毎回のことながら、どくんと脈打つ心臓を意識する。本当に学ばないな――と、自らの意識を自嘲した。
「どういうことですか。私が無垢じゃないとでも」
「違うよ。が無垢だと俺が困っちゃうっていう話」
「一緒じゃないですか」
「違うんだけどなぁ」
そう言って隠神さんが喉の奥で密やかに笑う。ちょうど空になったグラスのタイミングを図ったように、ホテルのルームキーがキラリと光って見えた。
✽✽✽
朝目覚めると、既に隠神さんはいなかった。
これもお決まりのパターンである。
私はのそのそとシーツの海から上半身を持ち上げ、覚醒と眠気の合間を揺蕩う。
いつからこんな関係になったのかと問われれば、いつの間にかこうなっていた、としか言いようがない。
今となっては最初に誘ったのがどちらだったのか、そもそもお互いが誘いあったのかすらどうかも曖昧だった。
仕事として扱う情報には金銭的な対価を、それ以外にはこの関係を。
ある意味、彼からのハニートラップを仕掛けられている気分になるが、それを受け入れている自分が悩ましい。
結局、彼から与えられる温度や優しさが心地よくて、そこに喜びや期待、ましてや恋慕の上を抱く自分が一番――。
「馬鹿みたい」
呟くと同時にバサッと勢い良くシーツを蹴り飛ばし、洗面所に向かう。早く日常に戻ってしまおう。白を基調にした洗面所へと続く扉に手をかけ、扉を開く。
――そこにあったのは、一面の真っ赤な薔薇だった。
床には薔薇の花弁が絨毯のように敷き詰められ、洗面台も薔薇の花弁に埋め尽くされている。
「なにこれ」
目に映る花弁と鏡越しに映る花弁、両方の狭間で、まるで薔薇の花畑に埋もれてしまっているようだ。
思わず呆然としていた脳裏に昨日の会話が突如浮かび上がる。
――隠神さん、花を送ってください。
――花? いいけど、急にどうして?
――私だって花が欲しくなることだってあります。
――分かった分かった。なんの花がいいの?
――薔薇です、赤い薔薇をたくさんと……。
「その結果がこれか……」
知らず知らずのうち、しゃがみこもうとすると、洗面台の上にメッセージカードが埋まっているのが見えた。
――ご要望の赤い薔薇を。次はまた連絡する。
思わず深いため息をついてその場に座り込む。薔薇のしっとりとした感触が肌に心地よい。
これもどうせ狸の変化なのだろうけれど、このクオリティで数時間も維持させるというのはさすがとしか言いようがない。
けれど――、“ご要望の赤い薔薇”は受け入れられたけれど、もう一つの私の要望は受け入れられていない。
――隠神さん、花を送ってください。
――花? いいけど、急にどうして?
――私だって花が欲しくなることだってあります。
――分かった分かった。なんの花がいいの?
――薔薇です、赤い薔薇をたくさんと黒い薔薇を一本。
赤いバラを大量にねだること自体、自分でさえも今は幻滅するのに、さらには黒い薔薇までねだるとは……と頭を抱えていると、赤い薔薇がぽんぽんっと音を立てて消え去っていく。
「さすがに重かったかな」
自嘲的に呟けば、消えていく薔薇の中に一本だけ消えない薔薇が混ざっている事に不意に気づく。
我知らず勢いよく探し当てれば、その薔薇の花弁は間違いなく黒色だった。
赤色の薔薇は消えてしまったけど、握りしめた黒色の薔薇だけは消えていない。
「あなたはわたしのもの、なんて……」
こんなことをすればどうなるか、私の心情自体を分かっていて、さらりと訳なくしでかしてくれる隠神さんが小憎たらしい。
たかだか一本、けれど送られたこの黒い薔薇の一本に、こんなにも胸が温かくも痛くもわななく。
こんなものに縋っている自分に気づいていても、どうか、この名前のない関係に、なにかの名前がつくことを願って、私は黒い薔薇に口づけを落とす。
夢見たあとでいつも呼吸困難
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