ぶわり、と重々しく湿気をはらんだ風が、歩を進める
の頬を通り抜けた。鬱蒼とした街路樹が揺れると同時に、その重い風は、
の髪も一緒にぶわりと掬っていく。せめて晴れ間だけが堂々と広がっていればいいのに、青い空を厚い雲が虫食いに覆っている。カラリと晴れない高温多湿の気候は、
からじんわりと汗を流させる。
(やだな……)
は汗をぬぐって髪の毛を撫でつける。せっかくセットした髪型も、ぼさぼさとした状態に戻っているにちがいないと思うと、さらに憂鬱さに拍車がかかる。
は、問答無用でどろどろになるこの季節が苦手だった。そんな状態で人目につくのがどうしても乙女心が許さないのだ。
ただ、と
は心の中でうなづく。本部に着けば、トリオン体に換装できる。そうすれば、見た目の乱れなどは関係なくなるのだから、ひとまずは大丈夫。気を持ち直して、さわさわと湿気を孕んだ風が体を包む中、コツンと目的地に足を踏み出した瞬間だった。「よっ」と耳に飛び込んできた声と自らの臀部に触れる感触に
がかすかな悲鳴をヒッと上げると同時に、喉の奥に潜んだ笑い声が聞こえた。
「そんなに飛び上がらなくても、取って食いやしないよ。あ、ぼんち揚げ食う?」
を飛び上がらせた張本人は、飄々とした態度で本人おすすめのお菓子を取り出す。迅悠一。本人曰くボーダーの実力派エリート。そして名実ともにその通りの飛びぬけた実力の持ち主である。
状況を飲み込めないまま、
が「いまは大丈夫です」制するようにそっと手を挙げて遠慮をすれば、迅は「そ」と簡単に引き下がる。バリバリと小気味いい咀嚼音が隣から聞こえる。しばらく、ボーっとその音を聞きながら、
は不意に気づく。
(……迅さんと、歩幅が、揃っている)
気を抜けば大げさな動作をしそうな自身の身体を押さえつけて、
は気づかれないよう小さな深呼吸をする。そして、ちらりと見上げた迅の横顔は普段と変わりない。どうして、やはり今日も迅は
にとって完璧だ。髪の毛、その瞳、菓子を持ち上げるその指先まで、と
が思いを馳せた瞬間、改めて状況が頭の中に入り込んでくる。
「じ、迅さん……!」
「はーい、実力派エリート迅悠一です」
「こっ、こんなところで何を?」
「あれ、
ちゃんと一緒だけど」
「――あ」
(ランク戦だ)
風刃を持たなくなった迅はランク戦に復帰した。今日
が本部に向かう理由もランク戦に参加するためだった。玉狛支部でS級だった迅に対して、ランク戦という認識がまだ追いついていなかったが、こうやって話を聞くと実感する。
(迅さんが本部に来る機会が増えるんだ……)
そうすれば、本部で迅を見られる機会も増えるかもしれない。そう思うと心の底がぐるんと跳ねるが、浮かれる心を振り払って
は尋ねる。
「今日は誰かと約束があるんですか?」
「いやぁ、一回顔出してみて遊べるやつと遊ぼうかなと思ってる」
お、と迅が片眉をあげる。
「
ちゃん、俺とどう?」
「まさか! 私と迅さんじゃ、実力に差がありすぎて話になりませんよ。今日は迅さんの試合を勉強させてもらいます」
「ふーん」
「ふーん、ってなんですか」
抗議するように視線を向ければ、迅がこちらを見つめている。きゅっと喉の奥が詰まって
はたじろぐ。綺麗に透ける瞳は、あまりに自身を見透かすようで、苦手でもある。
「さっき、俺に熱ーい視線をくれてたのは、そういうことじゃなかったのか」
「えっ」
「残念だなあ」
(ばれてたの……)
気まずそうに一瞬で顔をぱっと赤らめた
を見て、迅の目が愉悦の色を映す。
「ね、
ちゃん。目が泳いでるよ」
「なっ……それは、別に……」
「実力派エリートはそんなに目を離せない存在なんだなあ」と嘯く迅に、改めて体中の熱が顔に集まるのが
自身でも認識できる。
「……わっ」
「わ?」
「わ、私が迅さんに憧れてること、知ってるはずです。目は離せません!」
半ばやけになって
が言い切る。威勢の良い啖呵に迅は軽く目を丸くする。
「おお。熱い告白だね、
ちゃん。俺はランク戦の相手の話をしてただけなのに」
「――はっ?」
は急いで記憶を手繰り寄せる。歩いていると迅に声を掛けられた。この時点ですでに浮かれていた。迅を盗み見て、さらに心を跳ねさせていた。そして混乱した。迅は何もしていないのに、自身で勝手に自爆したのだ。声にならないうめき声を上げて、
はその場にうずくまる。「お、
ちゃーん?」からかうような迅の声。その声を無視して、頭を抱えて自身のテリトリーに包まれると、少し慰められるような気がして、
はすっくとその場に立ち上がった。「はやっ」と言う迅の声も無視する。伝えたことは、もうすでに知られていることだから大丈夫だと言い聞かせる。
――そう、それは決して全てではないけれど。
「迅さん、茶化さないでください。私は、助けてもらったこと、一生恩に着るんですから」
「……ほんとに律儀なんだから、そんなもの忘れちゃえばいいのにねえ」
***
がボーダーに入隊するきっかけは迅だった。
その日、いきなり爆音が鳴り響いて、見慣れた周辺の景色が崩れていく中、
は逃げまどっていた。家も崩れてしまって、家族とも連絡がとれなかった。あの日も自身の汗で身なりがぐちゃぐちゃになっていた。もうどうしてよいか分からずに、ただただ焦燥感に追い回されて走り回る
の目の前に近界民が現れた時、心の底から
はもう終わったと思った。
ドンッという衝撃音が響いた時、
はそれが自身を終わらせた音だと思った。近界民の爪だか何だかが振り下ろされた時、ぎゅっと目を閉じたゆえに、真っ暗の視界以外何も見えていなかったのだ。だが、衝撃音以外感じるものは何もない。きゅうっと握りしめた拳に爪が食い込む。皮膚を破りそうなその痛みに、どうして痛みを感じるのか、と
がおぼろげながらに意識した時、男の――今となれば迅の
を案ずる声が聞こえたのだった。うっすらと目を開ければ、逆光に男のシルエットが浮かび上がる。先ほどまで自分を手にかけようとしていた近界民は地面に伏しており、その上に男が立っていることから、
は自分の身がその男によって救われたのだということを身をもって実感した。安堵のため息をとともに、今までどうやって立っていたかも分からなくなるほど簡単に身体から力が抜ける。地面に尻もちを着きそうになった瞬間、いつ移動したのか手首と腰を支えられる。戦場の混沌とした空気を相まって、男の体温ごと、じとっとした熱さが
に伝播していく。反応がない
に対し、さらに気を遣う響きを含ませて、男が再び
に「大丈夫?」と声を掛けた。
は、ようやく自らを抱きとめる男の顔を見つめる。上から降る陽の光、影を背負った男の顔はやはり逆光だったが、整った顔だちをしているように見えた。
(瞳が、)
目と目が合う。その時、全てを空白にして、
の頭を満たしたのは、男の瞳の美しさと、自身に触れる手の熱さだけだった。
***
「忘れられませんし、忘れません」
(あの後、迅さんに近づくために、どれだけ苦労してボーダーに入隊したか、なんて言ったら迅さんは、重い女だって引いちゃうだろうなあ)
「ふーん」
「だから、ふーんって」
「俺は
ちゃんじゃなくても助けたよ」
「……知ってます」
「風間さんや秀次が助けに来てたかもしれないし」
「分かってます。だけど、あの日、助けてくれたのは迅さんです。そんな迅さんに憧れるのはいけないことですか?」
迅の視線が
を映した後、すっと逸らされる。ぐしゃぐしゃと髪の毛を乱しながら迅は「いけないことじゃないんだけどなぁ」と小声で呟く。
「それはお互いにとって重くない?」
「――お、重い女ってことですか、まさか絶縁宣告をしに?」
「いやいや。どうしてそうなるの」
「だって」
「どうして、俺が今ここにいると思う?」
「それは、ランク戦に――」
参加するから、
はそう言いかけて口ごもる。本部ではなく、わざわざ本部に至るまでの道で
に声を掛けた。それが、たまたま会っただけではなく、わざわざ声を掛けたのだとしたら。迅のサイドエフェクトの力で。
「……も、もしかして、私に声を掛けるため、ですか?」
「そのとおり。実力はエリートの力を以てして
ちゃんに声を掛けたのです」
まさか迅に憧れを抱いていると公言する
に釘でも刺しに来たのだろうか。淡い好意を抱く迅に、告白もしないうちに振られたとしたら、ボーダーもやめよう。
は思考をめぐらせる。いや、それをさせないためにフォローも兼ねてわざわざ話しかけに来たのでは、いやいや、そこまで自分はボーダーに貢献していない。慰労される理由がない。もはや大学生活に集中しよう。悲しくて苦しくて暑くて汗が滴り落ちる。
そこまで考えたところで、徐に手を握られる。有無を言わさぬ温度。湿度が絡みつくその温度に
は目を見開く。
「あの日も
ちゃんは汗だくだった」
「……よく覚えてますね」
「覚えてるよ。あの後
ちゃんがボーダーに入ってからは、いつも身なりに気を遣ってるもんだから、誰かと思ったよ」
「失礼な。くせ毛だし、乙女心があるんです」
「だから今日声を掛けたんだ。あの日の
ちゃんが見たくて」
「ぼさぼさの私ですか?」
「ぼさぼさも可愛いけどね。もう一度、手を握って、目を見て、確かめて見たいと思って」
「なにを」
「俺のサイドエフェクトを」
じっとりとした熱はいまだに
の腕を掴んで離さない。暑さは不快なのに、この熱さは不快ではない。自らの手を掴む迅の手を思わず逆の手で掴み返す。
(迅さんもそう思ってくれているなら)
絡み合う視線がどうか外れないうちに、どうか、少しでも望んだ未来の存在を切望することを許してほしい。
「私は、迅さんの未来の中に存在したいです。」
(できれば、もっとずっと近い距離で、)
そう口の中に秘めつつ、見つめた迅の瞳が、ふ、と緊張から微笑みに変わった気がした。
夏を分解する指
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