迅悠一が
の部屋を見て呆気にとられたのは今日が初めてではない。
だけれど、迅は思わず眉間を抑えた。呻き声さえ出てきそうなのだから恐ろしい話だ。
そして何より恐ろしいのは、
の、この玉狛支部での部屋の惨状だった。
一体何をどうすれば、自分の私室とほぼ同じ広さのこの部屋でこんなことが起こるのか、自分の今までの経験や知識に問い掛けても答えが返ってくる筈もなく、意を決して、その白い紙の海とくしゃくしゃに丸め捨てられた哀れな紙が目立つ部屋に足を踏み入れた。
今にもバランスを崩しそうな堆い本の山。本を山とするなら、今にもなだれ落ちそうな紙の丘も存在している。そもそも本や紙はこんなに積み重ねるのには向いていないのだ。倒れれば一層の悲劇を生むのは分かり切っているから。
迅は、ゴツゴツと鈍い音を立てながら地面にぶつかる本と、床に倒れこみ滑り込み広がる紙の山をたまらず想像し、辟易する。しかし、そう思うのは自分だけなのだろうか。
その本の山と紙の丘に埋まる人物を見て、多分そうなのだろうと、軽く息を落とした。
ほぼ床一面の白と、なお一層高い本の山に埋もれるようにして、PCの画面に向き合い、カタカタとキーボードを叩くその背中に声を掛ける。
「
さん、一体いつからここは、こんな風になったの?」
「あぁ迅くん。こんな風って?」
迅が話しかけても、驚いた様子はない。そのことに満足しながらも、振り返ることなく、そのキーボードを叩く手を止めずに、さっと答える
に苦笑する。
「本と紙に乗っ取られてるよ」
「ふふ、面白いこと言うね。ついでに言うとデータにもね。乗っ取られたのは先週あたりかな。レポートの締め切りが近いから」
は、高校を卒業した多くのボーダー隊員と同様、三門市立大学へ通っている。大学内にはボーダー隊員ならではの単位取得に協力できる内容の研究もあり、それを利用している隊員も多い。そのボーダー隊員の中でも大学の研究に心血を注いでいるのが
だった。
レポートの締め切り近くになると、もはやボーダー隊員ではなく、大学の研究員ではないかと思うくらい、部屋に缶詰めになっている。その間は、ボーダー関連で顔を出すのは、防衛任務くらいのもので、他には全く顔を出さなくなる。
もともと玉狛支部所属の
なので、本部所属の隊員にとっては大して不思議ではないだろうが、玉狛支部では違う。
まず、姿を見せなくなった段階では誰も特に不審には思わない。
は成人しているし、玉狛支部以外に泊まることもあるからだ。だが、それが何日も続き、長い不在だなと思っていると、最低限必要な場面のみ急に現れる。きちんとした食事も睡眠も摂らないものだから、目の下にはクマが目立ち、頭はぼざぼさである。そんな
がふらふらと幽霊のように物陰から登場するものだから、思わずはっと肝を冷やした玉狛支部の隊員も少なくない。
「
さん、俺のこと避けてたでしょ」
「バレた?」
今度は、回転式の椅子をくるりと回して振り返った
は悪戯そうに微笑む。
「迅くんにバレると厄介だから。会わないようにしてたの。ささやかな抵抗でしょ」
「厄介って。ちょっとそれは傷つくなあ」
悪戯そうな目の輝きに目を奪われるものの、すこしこけたのではないかと思う頬や、艶が失われていそうな髪を見て、迅は複雑な気持ちになる。
レポート直前に、こんな状態になるまで一気に筆を進めなくとも……と思うことは何回もあった。一度、
に、こんな夏休みの最終日に宿題を進める子供のような真似をしなくても――と辛口で尋ねたこともあったが、返ってきた答えは、「その子供だからね、背水の陣じゃないとやる気が出ない」というものだった。
その時のことを思い出して、迅は再び眉間を押さえる。
「ごめんね、そんなに傷ついたの?」
「ああ、いやこれは違くて。いや、違わないか」
「どっちなの」
は軽やかに笑って、再び椅子をくるりと回転させようとする。
「ちょっと待って
さん」
「なあに?」
「分かってるでしょ」
「あと1時間! 1時間で目途がつくの!」
「前はそう言って俺を3時間待たせたよね?」
「ぼんち揚げ食べながら待ってたじゃない」
「一人で寂しく待つ俺の気持ち考えたことある?」
ここが駆け引きの肝だ。迅は神妙な面持ちで、憐れみを誘う声で
に問いかける。「うっ」と
の顔が罪悪感にゆがむのを見て、今回は勝ったと思った。
前回は、同じことを言われて、1時間ならと思い自室で待っていた迅だったが、待てど暮らせど
が部屋から出てこない。ひとまず1時間と半時間を待った後、
の部屋に行けば、「追加であと1時間!」という懇願に負け、最終的には3時間待つことになったのだった。そして3時間待った後も酷かった。本人曰く「誤字が――、あの言いまわしをもっと変えれば――」と机に噛り付くのを引っ剥がすのが大変だったのだ。
「今回は、ここで待つから」
「えっ、集中できない」
「俺は今すぐにでもいいからね」
「迅くんのケチ」
「俺が来るってこと、大体わかってたんでしょ」
「……わかってた」
「じゃあ、ちゃんと約束も守らないとね。
さん」
「それは……」
「したよね? 約束」
「……しました」
にこりと念を押すように迅が微笑めば、
は、観念したように回しかけていた椅子を迅の方向に向ける。
その様子に満足げにうなずいた迅は、「さてと」とあたりを見回す。
ゴミ箱からはみ出ているのはエネルギーゼリーの残骸だ。
「
さん、まずはご飯からだね。俺特製のおいしーいご飯があるからね。それ食べて」
「はい」
神妙な面持ちでうなずく
を保護者のような面持ちで見つめながら、迅は約束を思い出す。
初めてこの部屋の惨状を見たのは、迅のサイドエフェクトだった。
同じ玉狛支部の一つ年上の女の子。その彼女は至って普通の女の子だったし、特に何も思うことはなかった。
それが、
が大学に入学してからだった。「もうすぐレポートの時期なんだ」と言う
が笑う姿を見た瞬間、迅の脳裏に、
の部屋の惨状と、
の幽霊じみた姿が映ったのは。もともと近界に興味があるのだと言って、ボーダーに入隊した
がゆえに、大学での近界に対するレポートには並々ならぬ熱情があるらしい。それがそんな形で現れるとは、と当時の迅も舌を巻いた記憶がある。
ご飯もろくに食べない、お風呂にも数日に1回、ずっと机に噛り付いたままの姿勢、足の踏み場もないような散らかった部屋。どれをとっても、
本人の環境としては劣悪である。その姿を見て、つい親切心とほんのすこしの下心を出してしまったのである。
まずは部屋へ缶詰めになっている
に押しかけて、レポートの締め切りと進捗具合を聞いた。元々のデータは揃っているようだったし、いざとなれば本人曰く「背水の陣」でなんとかなるだろう、と目論んで、
の身の回りの世話をした。
――私のお世話? 要らないよ、子供じゃないんだし。
その時の
のぶーぶーと文句を言う様子を思い出して、思わず迅は頬に笑みを浮かばせる。玉狛支部の隊員が幽霊姿の
の姿を見て腰を抜かしたらどうするのかと冗談交じりに指摘し、他の隊員にも良い影響を及ぼさないと言えば、
は、しぶしぶと従った。
それにやはりエネルギーゼリーだけでは本人も辛かったのか、久しぶりに食べる他人の手料理をとてもおいしそうに食べていた。その後、風呂に入るよう促し、部屋の掃除もした。見違えるように綺麗になった部屋を見て、
もひどく感動したようで、それ以来、多少の反抗はあれど、おとなしく迅に従っている。
「レポートの時は、俺がお世話できる時間を取れるように、すこし余裕をもって作業にかかること。そんで、俺にお世話されること。それが俺と
さんの約束だからね」
「あんなにお世話してもらったら、もう元の生活に戻れないからね。なんだかんだ言って」
「冥利に尽きるね」
「迅くんのおいしいご飯食べたら、お風呂に入ってきます」
「いいね。素直でよろしい」
が立ち上がると同時に、椅子がぎしりと軋んだ音を立てる。
よろよろと側を通り過ぎる
の華奢な身体をすこしだけ邪な目で、ぼさぼさになった髪の毛を愛おしく見つめながら、迅はその背中を見送る。
白い紙の海とくしゃくしゃに丸め捨てられた哀れな紙で埋め尽くされた部屋を、
が帰ってくるまでにピカピカに掃除した後は、少しだけ仮眠をとらせてやろうと考える。
一度寝たら終わりだなんてピーピー文句を言うであろう
に思いを馳せて、迅は改めて、やれやれと笑うのであった。
いとし可愛し
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