オレンジのパンダがピンクの笹を持って立っている。
 そんな光景、あり得ないと分かってるのに、ぐにゃぐにゃと歪む生温かい思考回路はその幻想を中々に手放してくれない。ああ、ついにパンダが踊り始める。
 ううん、と私は唸る。カラカラになった喉を慰めるために枕元に置いた水を飲んでも、逆に喉が悲鳴を上げる。身体の節々が痛む。さっき測った体温計が指し示した温度は38.5度。つまるところ、風邪を引いてしまったのである。
 昨晩、玉狛支部にある自室のベッドへ横になる際には、ほんの些細な違和感しかなかった。それが寝覚めの悪い今朝を迎えると、身体が重く、これは風邪かもしれないなと思っているうちに、あれよあれよと熱が出てしまった。
 朝のうちに、台所から完治までの籠城用品を拝借していると、みんな心配してくれたけれど、学校や用事があるし、なにより風邪を移してしまったら洒落にもならない。
 そうして私はひとり、私室で横になっていたのだった。

 ***

 どれだけ時間がたったか分からない。
 うつらうつらとオレンジのパンダの悪夢と戯れながら、ベッドに横になっていると、コンコン、と音が聞こえた。
 最初、それは悪夢が見せる幻聴だと思って無視していると、再び、先程よりは強めな音量でコンコン、とノックの音が聞こえた。もしかすると、幻聴ではないかもしれない、と思い直し、掠れる声で返事をする。

さん、俺です」
「……烏丸くん?」
「入ってもいいですか?」
「え、駄目。風邪、移っちゃうから……」
「大丈夫です、トリオン体に換装してますから」

 そうなんだ、と目を丸くしている間に「入りますね」と声が聞こえて、扉が開く。

「烏丸くん、学校は?」
「もう夕方ですよ」
「あー、そうなんだ……」
さんが風邪引いてるって聞いて、バイトまでの間にお見舞いに来ました」
「ありがとう、でもお見舞いなんてだいじょう――」
「大丈夫じゃないですよね」

 烏丸くんは、呆れたように私の周辺を見渡す。飲みかけの水に、薬やのど飴のすてがら、投げ捨てられた体温計――。

「熱は何度ですか?」
「朝は38.5度あったけど、いまは37.7度まで落ち着いたところ」
「そっか、それはよかったです。ほかに辛いところはありますか?」
「――オレンジのパンダが……ピンクの笹を持ってて」
「……オレンジのパンダ?」
「そんなこと現実にありえないよね? あり得ないってわかってるんだけど。頭おかしくなりそうで」
「オレンジのパンダはいませんけど、ピンクの笹はありますよ」
「え? うそ」
「本当です、突然変異で発生したらしくて」
「うそ、小南ちゃんじゃあるまいし、だまされないんだから」
「ピンクって言っても派手なピンクじゃなくて、ほんのりピンクの笹ですよ。本当です」
「……ほんと? ピンクの笹が実在するなんて、私ってすごい」
「……」
「え。実在するんだよね? すごいよね、私?」
「――すみません、ウソです」
「……とりまるくん」
「すみません」

 謝りながら、ふはっと思わず吹き出すように烏丸くんは笑った。
 踊るオレンジのパンダもピンクの笹も存在しないことに、なぜか一安心しながら、私は烏丸くんを見つめる。熱も峠を越えたことで、今さらながら、ひしひしと人恋しさがこみ上げてきた私は、烏丸くんに感謝の念を伝える。
 すると、烏丸くんを目を丸くした。

「俺はまだ何もしてないですよ、今は来ただけの状態です」
「みんなに移すと申し訳ないから、誰とも会えないと思ってて。だから、顔を見せてくれただけでもうれしいんだよ」

 風邪のせいで思ったより力なく、へにゃりとした笑みになってしまったが、笑顔でお礼を述べると、烏丸くんは一瞬固まってしまった。

「烏丸くん?」
「……まだ熱あるみたいなんで、とりあえず冷却シート貼り変えましょう」

 烏丸君は、私のおでこへ貼りっぱなしになっていた温くなりきっている冷却シートを外し、てきぱきと新しいものに取り替える。
 来た時には気づかなかったが、手に持っていた袋からは、新しいスポーツドリンクや、氷枕、のど飴など、風邪対策グッズが目白押しである。
 
「さすが烏丸くんだねぇ」
「風邪を引いた人の世話は家族でも慣れてるんで」
「それにあやかれるなんて、ありがたい」
さんは妙に雑なところがあるんで心配ですよ」
「ごめんなさい」

 枕元に散らばっていた薬やのど飴の捨てがらも綺麗に掃除されて、氷枕もセットされる。スポーツドリンクも枕元に鎮座している。

「あとは、食欲はありますか?」
「うん、ちょっとおなか空いたかな」
「よかった。定番ですけど、卵がゆ作ってあるんで食べてください」
「えっ、鳥丸くんの手作り?」
「はい」

 私はごくりと唾を呑みこむ。
 あれだけ女性に人気の烏丸くんの手作りのおかゆ。知る人が知れば、私は大きな恨みを買ってしまうのではないだろうか。ただでさえ、同じ玉狛支部ゆえに、気安く話しかけてくれる場面の多い烏丸くんと一緒にいると、周りの視線が刺さるときがある。
 でも、と私は思い直す。せっかく作ってくれたものだし、絶対おいしいに決まっている。絶対食べてみたい。そう思うと、きゅーっとおなかが鳴いた。
 その音を聞いた烏丸くんは、ふっと微笑むと、「おとなしくしててくださいね」と言って、立ち上がった。扉の取っ手に手を掛けた烏丸くんは言葉を言い残し、扉を閉める。

「あと、汗かいてると思うんで、着替えておいてください」

 着替え。私は、口の中で単語を転がして赤面する。
 そういえば、烏丸くんが来るまでうなされていた私だ。当然汗だくだったに違いない。これが実家なら、全部ぽんぽんと脱いで新しいものに着替えてしまうことに何の抵抗もないが、相手は烏丸くんだ。何の他意がないと分かっていても、恥ずかしさがこみ上げるが、汗だくなのは事実なので、私は急いで簡単に身体を拭いて、下着とパジャマを着替える。脱いだ服は烏丸くんが帰った後に洗濯しようと思って、いったんクローゼットのランドリー入れに放り投げておく。
 本当、知る人が知ったら、私を恨むに違いない。まるで家族のように風邪を引いた私の世話を見てもらえるなんて。
 ちょうど着替え終わったとき、見計らったようにコンコンとノックの音が響いた。

「はい」
「入っても大丈夫ですか?」
「だいじょうぶだよ」

 そう言うと、お盆の上におかゆとお水を乗せた烏丸くんが入ってくる。

「わーおいしそう!」
「そうですか、口に合うといいですけど」

 謙遜する烏丸くんに相反して、その手作りがゆは絶品だった。私は本当に風邪を引いているのかとおもうくらいの勢いで、おかゆを食べてしまう。
 そうして食べる姿を、いつものようなクールな表情で烏丸くんが見つめるものだから、また赤面してしまい、「やっぱりまだ熱が上がってきたんじゃないですか」なんて言われてしまった。

「たいじょうぶ」
「本当に?」
「烏丸くんが、じっと見るから、恥ずかしくて」
「ああ」

 「ああ」ってなに? と思いながら、烏丸くんを見ると再び固まってしまっている。いや、表情からは何も読み取れないから、固まって見えるだけかもしれない。

「すみません。これ、食後の薬、飲んでください」 
「わ、ありがとう。本当においしかった、ごちそうさま」

 烏丸くんは私に薬を渡すと、食器を洗うといって部屋から出て行ってしまった。とんとん、と響く足音や、遠くから聞こえる食器の音が心地いい。
 そうしていつの間にか私はうつらうつらとまた眠りの淵に誘われたのだった。

 ***
 
 朝から、鳥丸くんがお見舞いにやってきてくれた時よりも短い間隔で、はっと目が覚める。部屋は暗い。スマートフォンを見ると、烏丸くんから「お大事に」というメッセージが届いている。
 烏丸くん。私はその名前を噛みしめて、火照る頬をぱたぱたと手で仰ぐ。

「烏丸くん、私、半分起きてたんだよ」

 一人で思わず呟く言葉は、ふわりと布団の上に落ちる。
 あの後、うつらうつらしていた私を眠ってしまったのだと思ったのだろう。帰ってきた烏丸くんは、私の横に膝をついて、そっと、その指で私の頬をそっと幾たびも撫でたのだった。
 今まで私が起きているときには感じられなかった、その慈しむような体温が、私の胸をじんわりと焦がす。
 風邪とは異なる呼吸の粗さに、私は思わず布団を握りしめて顔を埋めた。ぼすっ、と勢い良く私を受け止めた生成り色のシーツに包まれた羽毛布団は、人知れず告白をも受け止めてくれる。

「こんなの、烏丸くんが私のこと好きみたいって――」

 勘違いちゃうじゃない――。
 ボーダー内に一大ファン勢力を築き上げている烏丸くんのことだ。すぐに嘘をつく烏丸くんのことだ。
 私なんかに、そんなことはあり得ないと思いながら、頭からはあの体温が離れてくれない。
 なかなか静まってくれない胸の鼓動に、烏丸くんがお見舞いに来てくれる前より風邪が悪化したような気がしたのだった。



踊るオレンジのパンダ