その日、警視庁に向かった梅太郎は、目的である報告へ向かう最中の廊下で、見知った女性の姿を見つけた。
「さーん!」
「あ、梅太郎刑事。こんにちは」
思わずぶんぶんと手を振りながら、梅太郎が、女性――に呼びかけると、こちらに気付いたは振り向いて、にこりと微笑んだ。そのの様子に、梅太郎はきゅっと一瞬目をつむり、唇を噛みしめた。今日もの存在は自らにとって癒しだ、とじーんと余韻を噛みしめる。の存在は、周囲に花が咲いたようで、気の抜けない捜査特課における癒しなのだった。
一方、といえば、背後から気の抜けた、よく言えばどこか人を和ませる声が自分の名前を呼ぶことに気付いて、声の聞こえた方向を向けば、同僚である梅太郎がいることに笑みを向けたのだった。
梅太郎がそわそわとに声を掛ける。
「いやぁー、偶然ですね!まさか刑事に会えるなんて」
「今日はお一人ですか?」
「これから、野火丸さんに報告に行くんですよ」
「全く人使いが荒いんだから」と愚痴る梅太郎に、は「なるほど」と会心したように頷く。
「私も呼ばれてるんです。野火丸刑事に。お揃いですね」
「えっ、さんも?」
「もし問題がなければ、一緒に報告に行きませんか?」
梅太郎は心の中でぐっと呻く。自身が野火丸に呼び出されていることは事実で、今から報告にも行こうと思って警視庁にやってきた。そして、そこで癒しであるに会えたことも素直に嬉しい。嬉しいが、この二点が揃ったとき、自身に起こることを考えると、のほほんと嬉しがっている場合でもない。むしろ――。ぶるっと小さく身震いして、梅太郎は、頭に右手をやって、ぼりぼりと頭を掻く。
「い、いやぁ~、なんだか大事な用事を思い出しちゃったなあ~」
「え?」
「野火丸さんへの報告は用事の後にしよっかなあ」
「え、さっき――」
「じゃあ、また!」
梅太郎は名残惜しさを振り切るように、勢いよく体の向きを反転させ、来た方向に向かって歩き出す。
「あ、梅太郎刑事……!」
その梅太郎の背中に呆然とが声を掛けると、その足取りが一瞬止まる。
さらにぐるりと体を反転させた梅太郎がカツカツとに近寄って、ひっそりと声を潜める。
「今度、陽たちと飲みに行くんです。さんもぜひ! 一緒に行きましょうね」
そしてが返事をする暇もなく、今度こそ梅太郎は廊下を早足で去っていった。
普通に話をしていたと思ったら、いきなり焦った様子になり、最後にはなぜか飲み会へのお誘いをくれた梅太郎に、は首を傾げながらも、当初の予定通り、野火丸へ報告に向かうのだった。
***
野火丸がいる部屋の扉をコンコンとノックする。中から「どうぞ」と声が聞こえたのを確認して、は扉をそっと開く。部屋の中にはかわいらしい子供姿の野火丸がちょこんと座っていた。
「刑事、お疲れさまです。報告ですか?」
「はい」
梅太郎が自身を気に掛けてくれている理由と、そしてが梅太郎に親近感を感じている理由は、二人が、経緯は違えど、野火丸に対する立場が同じだからだとは思っている。は、野火丸に借金があるわけではないが、飯生に対して願いを述べる立場ではなく、野火丸から直接命令を受ける立場にある。
だからこそ、報告が同じタイミングになることもあるだろうに、は先程の梅太郎の態度を思い出して、自分がなにかしてしまったのだろうかと、不安な気持ちを抱く。もしかしたらのタイミングが悪く、梅太郎の報告のタイミングを邪魔してしまったのかもしれない、と野火丸に報告をしつつも、思考が飛んでいた時だった。
「刑事」
野火丸の声がを現実に呼び戻す。
「心ここにあらず、ですけど、どうしましたか?」
「あ、申し訳ございません。つい考え事を。大変失礼しました」
慌ててが弁解をする。
その弁解を聞きながら、野火丸はピン、と人差し指を立てる。
「何を考えていたかは後で聞くとして、僕に対して敬語じゃなくてもいい、ってこの間言ったじゃないですか」
「いえ、やはり立場上、しっかりしないと」
「刑事のほうが年上なのに?」
「年は上でも、職務では、野火丸刑事が上司になりますので」
「いやー、真面目だなー」
野火丸は徐に握った両手を顎の下につける。上目遣いで、に話しかけた。
「敬語はやめてほしいな――って、この僕が直接お願いしても駄目ですか?」
「遠慮します」
間髪入れずに答えたに対し、場に一瞬の沈黙が生まれる。
野火丸はしばらく、おねだりをした時の表情のまま固まっていたが、「ふー」とため息をつく。
「刑事のそういうところは、ちょっとだけ夏羽君に似てます」
「不快でしょうか」
「好感が持てます」
「好感?」
「好感です。あ、夏羽君のことは飯生さまには黙っててくださいね」
野火丸のその言葉に、野火丸のお気に入りである「夏羽君」と同じ好感を持っていもらえていることを知って、は目を丸くする。なんだかんだ言って、野火丸と梅太郎には縁が感じられたし、それに比べ自分は単なる上司と部下の関係だと思っていたからだった。
「刑事、それで?」
「……それで?」
「先程の報告の際、何を考えていたんですか?」
「この部屋に来る前に、梅太郎刑事に出会ったんです。 けれど、一緒に報告に行かないかとお誘いしたら、他の用事があるからと……。 私が梅太郎刑事の報告の邪魔をしてしまったのではないかと思って」
「なるほどー」
マイナス15点とプラス10点ですね、と野火丸が呟く。
「え?」
「だから梅太郎刑事はマイナス5点で、失格です」
「し、失格? なんの話でしょうか?」
「刑事の話ですよ」
「私の?」
の頭には疑問符ばかりが浮かぶ。
「まず、察するに梅太郎刑事が刑事に話しかけたんですよね」
「は、はい」
「まずマイナス10点。次に、他の用事があるなんて下手くそな嘘を言ったことでマイナス5点。最後に、ただそれで席を外したことにはプラス10点です」
「それで、総合でマイナス5点、ですか?」
「意味がわからないでしょう」
「はい」
戸惑うに野火丸はにこりと笑う。点数の配点もそうだが、事項自体よく分からない、とが内心で頭を抱えていると、野火丸がを手招きする。見た目の効果で純粋なようでいて、腹のうちはよく分からない上司である野火丸に手招きされれば、近づくしかないとは歩を進める。
野火丸の正面に相対すると、さらに手招きされる、秘密を打ち明けるような素振りで自らの手を口元に宛がう姿に、は横に回り込み、動作を合わせる。耳元に野火丸の声が響く。
「梅太郎刑事は、刑事に勝手にほのかな好意を抱いてるんですよ」
「えっ」
「下心が見えませんでした?」
「いえ、そんな」
「上司である僕を差し置いて、生意気なので、失格です。ということは、つまり、言い換えれば刑事のせいで梅太郎刑事は失格になるわけです」
「えっ?」
にっこりと笑う野火丸に理不尽さを飲み込みながら、が何か言葉を紡ごうとパクパクと口を上下させていると、さらに野火丸が言葉を紡いだ。
「優しい刑事は、自分のせいで梅太郎刑事が失格になるのは嫌ですよねー?」
「い、嫌といいますか。そもそも失格になるとどうなるんですか……?」
「しばらくはきつい任務に当たってもらうかもしれませんね、もしかしたら」
「私のせいで、梅太郎刑事が……」
「ひとつ、提案があるんですけど、聞きます?」
ごくりとが息を呑む。自らにもきつい任務が与えられるのかもしれない。ただ、よくわからない理論で梅太郎刑事に迷惑がかかるくらいなら、と覚悟を決めて、野火丸の目を見つめる。思いのほか近くにあった野火丸の目に不意にどきりとしながらは言葉を紡ぐ。
「私にできることなら」
見つめた野火丸の目が悪戯そうな光を孕む。
「僕と二人きりの時は、上司部下の敬語を使わないこと」
思いもかけない提案に言葉を失うに、野火丸が追い詰めるように「できますよね?」とにこにこと笑いかける。
「承知しました」
「承知しました?」
「……。 分かりました」
「まあ、はじめのうちは多めに見ます。梅太郎刑事は、他に何か言っていましたか?」
「え」
「言ってましたか?」
「い、言ってませ」
「言ってますよね?」
上司だからか何なのか梅太郎のことはお見通しなのか、野火丸はに圧を放つ。まだ何かあるんだろうか、と、思わずが野火丸から距離を取ろうとすると、不意に野火丸の小さな手に頬を包み込まれる。「さあ」、早く言ってしまえといわんばかりの雰囲気には項垂れる。
「……陽刑事たちと食事に行くらしく、そのお誘いもありました」
「マイナス50点」
「ご、ごじゅ、50点?」
これで正直に飲み会だと言っていたら、さらに減点されていたのだろうかとは慄く。
「どうしますか? 刑事のせいでまた梅太郎刑事が危ない目にあうかも」
「どうしたらいいんですか……」
諦念でが呟くと、先程より強い力で頬が包み込まれ、視線が近くなる。野火丸の長い睫毛に縁どられた瞳が瞬く。は、吸い込まれるような瞳に思わず小さく息を呑んだ。
「誰より一番先に、僕と食事に行ってくださいね、刑事」
まばたきに盗まれたこころ
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