朝、目覚めると狐がいた。もちろん本物の狐ではない。狐の怪物だ。
ほんの一瞬で、まどろみの世界から現実世界へと引き戻された私は、密やかな声でひっと息を呑んだ。起きたことを悟られないように、思わず身を固める。
私を包み込む布団は、相も変わらずぬくぬくと温かい。しかしそれ以上に温かいのがその怪物だった。胎児型の寝相で眠っている彼を抱きかかえるような姿勢になっている私には、ふわふわとしたしっぽが手肌に触れて心地よい。
すべて忘れてこのまま眠ってしまえばどうなるのかな。もしかしたら、全部なかったことにならないだろうか、と現実逃避を考えていたら、ううん、と彼の姿に見合った可愛らしい声が聞こえる。私が見つめる、その瞼が震える。
彼と目が合わないよう、反射的に目をつむろうとしたものの、それも間に合わず、ばっちりと視線が合う。にこりと彼が微笑んだ。朝から完璧なほほえみである。
「おはようございます、さん」
「……おはようございます、野火丸さん」
「うーん、良い朝だなあ」
「不法侵入ですけど、ご自覚は?」
「やだなー、僕を抱き枕にしているのにそんなこと言うんですか?」
つれないですね、という野火丸さんに、私は思わず、ぎゃっと色気のない声を上げる。
慌ててベッドから降りようとすると、両手で手をぎゅっと握られる。
「一緒に一晩過ごした仲じゃないですか」
「覚えてません! いつですかここに来たの? というか、どうやって?」
「機密情報です」
「そんな大げさな! ……合鍵とか作ってませんよね」
「さあ?」
「さあ?!」
「でも、狐の毛並みもなかなか悪くなかったでしょう」
ベッドで向かい合いながら、野火丸さんがにこにこと問いかける。
普段はヘッドホンに隠れて見えることのない狐耳まで、今日は見せてくれている。その尻尾もふわふわとくすぐったい。
たしかに、相手が野火丸さんじゃなく、普通の狐なら大喜びしただろう。そこまで思って、私は、はっと気づく。
「……ずっと、その姿ですよね」
私は、そーっと自らの服装に目を遣る。気持ちよく眠った記憶しかないけれど、まったくそんな覚えはないけれど、万が一ということもある。恐れおののきながら、注視した服装には幸いにも乱れ一つない。
そんな私の姿を見て、野火丸さんが息を漏らして笑った気配がした。
「その姿って?」
「いつもの野火丸さんの、子供の姿です」
「ふふ、気になります?」
上目づかいでこちらを見る野火丸さんの服装にもほぼ乱れはない。
「僕があっちの姿だったら、もっと焦ってくれました?」
「あり得ません!」
「次からは、あっちの姿で来ようかな」
「変なこと言わないでください……!」
「あれ、本気ですけど」
「冗談って言ってください……」
私は思わず溜息を呑みこむ。
野火丸さんは飯生妖子の部下であり、私は隠神さんの探偵事務所で働いている。それが何の縁で、こんなことになっているのだろう。
野火丸さんが夏羽くんを気に入っているような気はしていたけれど、主に事務員として働く私にどうして目をつけたのか分からない。気づけばよく、私の周辺に野火丸さんが現れるようになっていたのだった。
「いいですか、野火丸さん」
「はい」
「私は野火丸さんと、一線を越えて仲良くなるつもりはありません」
「一線? わー大胆」
「そういう意味じゃなくて。でもそんなつもりがないから子供姿でいてくれたんでしょう」
裏で野火丸さんが手を貸してくれているのは知っている。だから私も、野火丸さんのことをそこまで毛嫌いしているわけではない。
だからといって、家に勝手に入ってきて布団に入り込むことを許すわけにはいかない。それが例えば、半分狐や完全な狐の姿であってもだ。
「ということで、今日は許しますから、さっさと起きますよ!」
「さん」
「え?」
せーの、で起きようとした私は、やはり、野火丸さんに布団に縫い付けられる。
子供姿にかかわらず、さすがというべきか、簡単には身動きが取れそうにない。
「やっぱりお人よしでお馬鹿なさんが僕は好きですよ」
「馬鹿? す、好き?」
「僕が単に狐のぬくもりを与える為だけに入り込んだとでも?」
「それは……だって」
「しかも、今回は許すなんて、馬鹿にも程がある」
「……」
表情はにこにこと笑っているものの、野火丸さんの目から微笑みが消える。
私を組み敷いている野火丸さんが、徐に私の首筋に顔をうずめた。くすぐったさと羞恥に思わず声が漏れる。
「次は、あっちの姿で来ますよ」
「やだ、やめてください」
「今日も同衾ですけど、次はほんとに同衾になるかもしれませんね」
「そんなこと言うんだったら、この部屋から逃げます」
「さんにそんなことできます?」
「隠神さんの事務所に寝泊まりしたり……」
「いつまで?」
「それは――っ」
首元に吐息がかかる。
こんなことなら、朝目覚めて一番に、固まっているのじゃなくて、ベッドから避難するべきだったと思っても今さら遅い。
狐の耳と、狐の尻尾のもふもふに加えて、子供の姿に惑わされていても、相手は狐。油断をするべき相手じゃなかったと後悔する。
「……なーんて、冗談ですよ」
「はい?」
不意に、自らを組み敷いていた野火丸さんの手の力が緩んで、首元に埋められていた顔が離れていく。その顔はどこかばつが悪そうで、私は何故か安心する。
野火丸さんが布団の上にちょこんと座るのを見て、私も身を起こすと、またふわりと野火丸さんの尻尾が私の素足に触れた。
私は馬鹿なことに今までのやり取りも忘れて我知らずリラックスしてしまう。
「僕にできるのは、こうやって僕のにおいを付けて、周りの男たちを牽制することだけです」
「え?」
「もし探偵事務所を追い出されたら、僕がずーっと面倒を見てあげますからね」
「なっ、なななななな」
「さんとずっと一緒にいると楽しいだろうなー」
「そ、そんなことあり得ませんっ! 事務所から追い出されるなんて!」
「ま、確かに追い出されることはないでしょうね。でも、隠神さまになにか言われたことは?」
「――あっ」
野火丸さんに言葉を掛けられて、記憶を辿った私は、ぱっと思い出す。
あれは、いつかの日のこと、野火丸さんに絡まれた日だった。隠神さんは私を見た後、ぼりぼりと頭を掻いて呆れたように「仕方のないやつだな」とつぶやいたのだった。なにがですか?と問う私に隠神さんは「男はオオカミなんだから、あんまり調子に乗らせたら駄目だぞ」と、その時には意味の分からない言葉を私に残したのだった。
「あの時から、その、においを――?」
「僕ってわかるように、ちょっとずつ」
「全然気づきませんでした、知らないうちに、ひどい」
「うんうん、可哀そうですよね。でも僕可哀そうなさんも好きなんです」
「な」
「僕のせいでもっと可哀そうになってほしいし、そんなさんを慰めてあげたいんです」
「それっておかしいですよね」
「好きな子ほどいじめたいって言うでしょう」
「私は普通に愛されたいです……」
思いがけず呟いた言葉に、空気が揺れる気配を感じて、顔を上げる。
今日何度目かの至近距離で見つめる野火丸さんの顔が私に迫り、悪戯気に光る瞳が私を捉えている。
「普通に愛してあげますから、僕のこと許してくれますか?」
「ゆ、許すって……」
どんどん迫る野火丸さんの顔に、壁付けにしたベッドの壁際まで追い詰められながら私は腕を突っ張って顔を逸らす。
「ゆ、許したら、離れてくれますか?」
「離れますよ」
「じゃあ、許します! 許しますから、離れてっ」
そう言うと、今まで感じられていた圧が、ふっと離れるのが分かる。思わず、ふうと安堵のため息をついた瞬間、ついさっき離れたばかりの野火丸さんの温度が手に感じられ、壁に再び追いやられていた。
「え」
「やっぱりお人好しで馬鹿なんだから」
そう落とされた言葉と同時に、手だけではなく唇にふれた熱に、頭の中が沸騰する音が聞こえる。
何も知らないベビーブルー
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