甲高い音で鳴るアラームを1回で止め、むくりと起き上がる。普段であれば、もう少し眠気の中に揺蕩いながら微睡んでいたり、ごろごろとベッドの中で時間を過ごしていたりするが、今日はそんな気分にはなれない。
 今日こそ文句を言ってやるんだ。私は布団を握りしめながら、朝一番で決意をする。

 ✽✽✽

 初めて彼を意識したのは、ランク戦の解説の時だった。画面越しに戦っている隊員の動きや戦略を解説するため、2名ほどの正隊員が解説席に招かれるが、その日は、いきなり訳のわからない単語がその人物の口から飛び出した。頭が戦闘映像に集中している場面での聞きなれない単語に、脳が混乱し、疑問符が浮かんでは消えたのを今でもよく覚えている。それが隊員の名前を指していると分かったのは、その戦闘がしばらく進んだあとだった。
 王子一彰。彼はあだ名製造機だったのだ。その後も彼の解説や、ボーダー内で彼のつけたあだ名の広まりを知るにつけ、分かりやすいものから分かりにくいものまで、彼のつけるあだ名が多岐にわたっていることを知った。そして、さらに驚いたのは、そのあだ名をランク戦の解説席でも堂々と発言するという行動である。
 何より、より一層驚いたのはそんな王子くんと私が同じクラスだったということだった。同じクラスに彼がいたのは知っていたし、その強さも知っていたけれど、学校でもボーダーにおいても個人的に話す機会もなかった私は、彼の一癖も二癖もありそうな性格を全く知らなかったのだ。

 そうして、さっぱり接点の無かった彼と私に接点ができたのは、防衛任務の時だった。

「あれ、君、さんだよね。同じクラスの」

 防衛任務の合間、王子くんは爽やかに私に話しかけた。暗闇の中、はらりと胡桃色のような柔らかな髪が揺れる。微笑みを浮かべる青緑の瞳は、同年代とは思えないくらいの余裕の色を浮かべていた。王子だなんて苗字を、ここまで様になるほど背負える人物なんて彼くらいに違いない、そう思うほど王子のようなオーラを漂わす彼の態度に反して、そんな彼に存在を認知されていたなんて――とついつい尻込みをしてしまう。自分なんて彼にとってはその辺の雑草のようなものだと思っていた私は、思わず、「知ってたんだ」と、呟いていた。

「さすがに同じクラスにいるボーダー隊員のことは知っているさ。しかもB級隊員なら、尚更ね」
「あ、ありがとう。私も王子くんがこの間の解説してたの見たよ」
「ああ、あの場にいたんだね」
「うん」
「僕の解説はどうだったかな」

 ――すごく変わっていました、とは、言えるはずもない。けれど、何となく一縷の不安を覚えた私は思い切って口を開く。

「解説は参考になったんだけど、その、あだ名のセンスが独特だなって……」

 そう言うと、彼は何故か満足そうな顔になって頷く。これは、よくない。頭の中で警鐘が鳴る。彼があだ名製造機だと知ってから、万が一の可能性に備えて調べてきたことがある。彼があだ名をつける対象は、彼の先輩以外すべてに可能性がある、ということ。つまり、彼と同年代の自分にもその可能性があるということだった。絶対嫌だ、と私は心の中で頷く。自意識過剰だとしても、B級隊員のはしくれの私が、あんな公衆の面前であだ名を付けられて呼ばれた日には、ボーダー内を恥ずかしくて歩けない気がする。

「君は――」
「ごめんなさい! 王子くん」
「ん?」
「私、どうしても、あだ名って苦手で……。もしよかったら、普通に呼んでくれないかな?」

 ちらりと覗き見た彼は豆鉄砲を食らったような顔をしていたけれど、それも束の間、すぐに余裕のある顔に戻る。そして一人、うんうんと頷いていた。どうやら、そこまで気分を害していないようだ。

「分かったよ、あだ名は控えておくね」

 きらり、と光る笑顔で別れた彼に私は安心しきっていたのだった。

 ✽✽✽ 

 彼とのそんなやりとりも忘れた頃、ボーダー内を歩いていると、視線を感じる気配が多くなった気がした。どうしてだろう、と頭を捻っても特に思い当たる節もない。まあ全部、気のせいに違いない。そう思って、訓練を終え、ラウンジに戻った時だった。

「やあ、

 出し抜けに現れた王子くんが私の下の名前を親しげに呼んだのである。

「なっ――!?」
「今日も訓練お疲れさま、
「ありがとう――じゃなくて、王子くん……!? どうして私の下の名前っ?」

 周辺の隊員からの好奇な視線を感じた私は、思わず目を白黒させる。一体、どうして彼が私の名前を、しかも下の名前を呼ぶなんてことがあるのか。その上、親しげに、呼び捨てで。
 彼は、そんな私の様子を見て不思議そうに、うふふ、と微笑む。

「嫌だなあ、。君が名前で呼んでほしいっていうから呼んでいるのに」
「ちょ、それは言い方が……!」

 さらに好奇の目が深まった気がして、私は彼の腕を掴んで、ラウンジの外に出ようと試みる。「大胆だね」という彼の声が聞こえた気がしたが、今はそれどころではない。
 ばたばたとラウンジから飛び出して人気のない廊下に行き着く。ここなら他の隊員の目もないだろうと安堵も束の間、彼の腕を掴んで長く歩いていたことに気づく。抵抗はなかったものの、どんな表情をしているんだろう、ごくりと唾をのんで振り返って覗き見た彼の顔は、いつもと変わらない微笑を湛えていた。むしろ、目には悪戯な光が宿っているようにも見える。

「とんだ逃避行だね、

 これもまたきらりとした顔で笑う彼に、自分の喉から、うっと呻き声が飛び出る。
 
「王子くん、確かにあだ名はやめてってお願いしたけど、それじゃあ……」
「それじゃあ?」

 ――私と王子くんが親しい関係みたいじゃない。
 きゅっと唇を嚙みしめる。これこそ自意識過剰だけれど、いきなりこんな風に下の名前を連呼されれば意識をせざるを得ない。実際に、ラウンジにいた他の隊員からも好奇のまなざしで見られていたし――とそこまで考えて私は、はた、と動きを止める。

「お、王子くん?」
「なんだい?」
「私のことを呼んだのってさっきがはじめて、だよね?」
「いや、ランク戦の解説からだね。」
「――そこで、下の名前を……?」
「おや、いけなかったかい?」

 嘘でしょ、と思わず頭を抱える。私が参加したランク戦は数日前だ。まさか公衆の面前で、彼に下の名前を呼ばれていたなんて。目の前が真っ暗になる。目立つあだ名が嫌だと思って、名前――私は苗字だと思っていた――呼びをお願いしたのに、下の名前を呼び捨てで呼ばれるなんて、余計悪目立ちしたに違いない。くらくらとする頭で、私は途方に暮れる。

「良い戦いっぷりだったよ、

 苗字呼びをお願いしなかったことも、ランク戦のログを見ていなかった自分も悪い、と猛省しながら、当日の戦闘について語る彼を思考回路の切断された頭でぼーっと見ながら、その日も別れたのだった。

 ✽✽✽ 

 そして、時間は今朝に戻る。思考回路の戻った頭で考えて、ちょっとだけなら文句を言ってもいいんじゃないかと思い至ったからだ。苗字や、せめて下の名前でも「ちゃん」なんかを付ける方法だってあったはず。いくら相手が王子のような王子くんでも、私にも物申す権利があるはずだ、と自らを奮い立たせて、私は登校したのだった。

「王子くん、ちょっといいかな」

 放課後。人気もまばらになった教室で私は王子くんに声を掛ける。彼は私が声を掛けることを予知していたみたいに、涼やかに頷いた。
 「きっと人が居ないほうがいいみたいだから、人気のないところに行こうか」という彼の私の気持ちを汲んだ申し出により、人気のない廊下にやってきた私は、恨みがましい目で彼を見つめる。

「名前の呼び方なんだけど、下の名前を呼び捨てっていうのは、ちょっと誤解を生むんじゃないかなって」
「誤解?」
「まるで、私と王子くんが、その親しいみたいじゃない」

 そう言うと、彼が軽やかな声をあげて笑った。その姿をびっくりしながら見つめていると、少し目じりに涙を溜めた彼がくすくすと笑う。

「君は本当に素直だねぇ」
「素直って?」
「わざと、だよ」
「わざと?」
「直接攻めるのもいいけど、今回は外堀を埋めていこうかなと思ってね」
「ちょっとよく分からない、んだけど」
「どうやってチェックメイトを作ろうかと考えてたら、君からあだ名の話があったからね、利用させてもらったよ」

 はらりと胡桃色のような柔らかな彼の髪が揺れる。
 あの日の夜みたいだ。ぼーっとする頭でそう考えていると、王子くんの手がこちらに伸びて、肩に落ちる私の髪の毛を掬った。

「親しいみたい、じゃなくて、これから親しくなるんだよ」

 青緑の瞳が、また悪戯そうに笑うのを見て、身体が熱を帯びるのを感じる。一癖も二癖もあると分かっていたのに、と思う頭は、再び思考回路が途切れてしまった。



三秒後には目を伏せて


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