王子くんが胸に傷を負ったらしい。というのは、もちろんトリオン体の話。どれだけ深く傷がついたかは分からないけれど、トリオン供給器官が破壊されてしまっていれば、その再構築には少なくとも数時間以上掛かるだろう。そう踏んだ私は、これはある意味チャンスだとばかりに王子隊の作戦室に向かった。
 ――コツコツコツ、と自らの足音が廊下に響く。他隊の作戦室にお邪魔するというのは、思った以上に心臓がさざめくものだ。自らの足が進む先が他隊の作戦室だと思うと、響く足音にすら緊張してしまう。
 そうして緊張する心とは裏腹に、足は目的地である王子隊の作戦室の前で立ち止まってしまう。入るか入らないか悩む局面ではないのに、いざ、王子隊の作戦室の前に立つと、自分が思った以上に緊張していることが分かる。
 ええいままよ、と震える手をドアに向けて差し出したとき、ゴゥーンと音を立てて、その扉が先んじて開いた。そのタイミングの良さに私は顔を引きつらせて止まる。

「あれ、さん」
「蔵内くん!」

 ドアが開いた先に現れたのは王子隊の蔵内くんだ。にこりと柔和な笑みを浮かべる蔵内くんが現れたことに、内心でほっと安堵する。羽矢さんを除いて、出てきたのが、王子くんでも樫尾くんでも、こんなに安心はしなかっただろう。まるで庇護者のもとにいるかのような安心感を覚えて、緊張を解く。

「何か用かな?」
「差し出がましい話なんだけど、差し入れをと思って」
「差し入れ?」

 ここまで話すと、蔵内くんは、私の立ち姿を見て、納得したように「立ち話もなんだから」と作戦室の中に招き入れてくれる。「蔵内くんの用事は大丈夫なの?」と問いかければ、「すぐに済ませないといけないことじゃないから、全然問題ないよ」と優しい答えが返ってきた。癖の強いボーダー隊員が多い中で、こんなに柔和に気遣いのできる人はボーダーには多くはないだろうと思って、心の中で感涙していると、ドアの右手側のソファに通される。
 私はソファに囲まれるようにして設置されている机の上に、両手で持っていた箱を置く。思った以上に重みのあるそれの中身は、梱包しているとはいえ、箱の中でごろりと少し転がる気配がする。

「林檎です」
「林檎?」
「私の実家が林檎農家をしているんだけど、この時期になると、大量に林檎を送ってくるの。一人じゃ食べきれないから、ボーダー内の知り合いの人たちにも食べてもらおうと思って、配ってて」
「なるほど。の実家というのは……」
「東北だよ。はスカウト組なんだ」

 ここにきて、蔵内さん以外の声が聞こえる。――王子くんだ。
 王子くんの声がする方を見ると、さっき私たちが入ってきた入口に王子くんが身体を預けるようにして立っていた。

「ね、
「そうなの、わたし、林檎の産地の出身で」
「スカウト組だったとは、知らなかったな」
「そう、たまたま数年前にスカウトされてね。その地域では私以外はいなかったからあんまり知られてないんだ」
「なるほど」
「だから、林檎を食べてくれると嬉しいなあって」

 なにが「だから」に繋がるのな自分でも分からなくなって、照れ隠しに、ふふふと笑いながら、そう言えば、王子くんはさわやかな笑顔で思いを馳せるように言葉を紡ぐ。

が林檎を配り始めると、季節の訪れを感じるよ。もはや風物詩だね」
「そんな大げさな」
「甘みもあっておいしい林檎だよ」

 王子くんがふんわりと笑みを浮かべる。それに釣られてわたしも笑みを顔に上らせると、王子くんが尋ねる。

「去年は、ぼくにだけくれたと思ったけれど」
「今年はね、豊作なの。だから隊の皆さんもにと思って」
「それはありがたい」
 
 笑顔でお礼を言ってくれる蔵内くんと、ふーんといった顔で頷く王子くんに「あと」と言葉をつなぐ。

「さっき、王子くん、ペイルアウトしたでしょう。だから、お見舞いの意味も込めて」
「お見舞い?」
「トリオン体は怪我じゃないけど、怪我して病院に行ったら、たいてい、林檎剥いているイメージでしょう」
「胸を刺されたら怪我どころじゃないけどね」

 くすりと王子くんが笑みを漏らす。
 たしかに、トリオン体での戦闘は怪我という生ぬるいものではない、一発でのペイルアウトともなるとなおさらだ。それと、病院での林檎を剥くイメージを一緒くたにするのはちょっと厳しいかなあと思っていたとき、王子くんが「でも」と呟く。

「気持ちはありがたく受け取っておくよ。林檎もね」
「ありがとう! 樫尾くんと羽矢さんにも渡しておいてくれる?」

 ふたりは今作戦室いないようだから、と両手を合わせてお願いすれば、蔵内さんが頷くと同時に、王子くんが「ああ」と何かを思い出した風に蔵内くんに向けて言葉を発した。

「ラウンジで、カシオが待ってる」
「ああ、そうだった」

 そのやり取りに、私はちょうど蔵内くんが作戦室から出ようとしていた場面で引き留めてしまっていたことを思い出す。

「引き留めてごめんね、蔵内くん」
「いや、いいんだ。林檎、ありがとう」

 さらりとこちらを気遣わせない笑みを浮かべて「それじゃあ」と蔵内くんは踵を返す。私が見送る体勢に入ると、一瞬足を止めて小声で「あとはよろしく」という声が投げかけられる。――何を?と思って見上げる蔵内くんの姿は、すでに後姿になっていて、その真意を訪ねることは、もはや難しい。
 首を傾げていると、今度は、去っていった蔵内くんと交代するように王子くんがソファに向けてやってくる。ペイルアウトしたからか、いつもの隊服ではなくて私服の王子くんもなかなかに新鮮である。王子くんはソファの真ん中に軽やかに腰掛けると、不思議そうに私の顔を見遣った。

「座らないの?」
「え、いいの?」

 と言いつつも、段ボール箱に詰められた林檎を前に王子くんとふたりきりで話せることも特に思い当たらない。何か面白いネタでも私が持ってればいいんだけれど――と思いながら、私はソファの端っこにちょこんと腰掛ける。
 手持無沙汰になりそうな気配を感じた私は、林檎が入っている箱を開封する。そこには親がネットキャップに詰めてくれた林檎が並んでいる。今年もいい色だ、と笑みを浮かべて、みんながおいしいと思ってくれるといいんだけれどと思う。

「今年もうれしそうだね」
「林檎見てるとつい。去年も、もらってくれてありがとうね、王子くん」
「こちらこそ、おいしくいただいたよ」
「そっか、そう言ってくれるのが一番うれしい」

 思わず胸の奥から込みだす笑みが、王子くんの青緑の綺麗な瞳に映る。自分の姿が王子くんの瞳に映っていることが急に恥ずかしくなって、きゅっと身を縮める。
 去年はあまり豊作ではなかったのと、人に配るという行為に気後れしてしまい、そこに他意はないものの、結果的に、なぜか王子くんにしか林檎を渡さなかったのだ。

「去年は、林檎を持ってウロウロしているを見つけたから声を掛けたら、それをそのまま胸に押し付けて、去っていくんだから。ぼくもさすがにびっくりしたよ」
「その節は、非常に申し訳ないです……」
「その翌日に、丁寧に品種と食べごろまで書いたメモを渡しに来てくれた時には、思わず笑っちゃったよ」
「……うっ」
「おいしく食べてもらいたいという、そのの心の現れは好ましいけれどね」

 さらりと好ましいとか使う王子くんに、私は赤面してしまう。王子くんは名は体を表すをいう慣用句を地で行く、容姿と性格の持ち主だ(独特なあだ名を付けるという個性はあるけれど)。
 そんな王子くんに、好ましいと言われれば、林檎の話だろうけれど、赤面してしまうのも仕方のない話だろうと思う。たとえ、本人はなんとも思っていないであろうとしても。
 
「それで、この林檎たちの食べごろはいつなんだい?」
「あ、もうほぼ今かな」

 そう言うと、王子くんは「なるほど」と言って、押し黙ってしまった。何だろうと思っていると、王子くんは徐にソファ越しに私に向き直る。

「もしかして持ってる?」
「え? なにを?」
「果物ナイフ」
「――どうしてわかったの?!」
「食べごろの林檎に、昨年のの林檎への情熱を見るに、食べたいという隊員がいたら、その場で食べさせるんじゃないかと思ってね」
「そのとおりです……」
 
 見事に王子くんに思惑を指摘されて、私は驚いてしまう。
 ――でも、これではまるで危険人物のようだ、と追い詰められるような気持ちで、カバンの中からゆっくりと果物ナイフを取り出す。

「決して怪しいものじゃなくて」

 そう言い訳すると、王子くんは、軽やかに爽やかな笑い声を奏でる。

「まさか! そんなこと疑いもしないよ」
「あ、ありがとう」
「それで、は、今林檎を食べたいと思っているぼくに林檎を剥いてくれるのかな?」
「いいの? もちろん!」

 私はカバンの中から紙皿とフォークを取り出す。こんな時のために、林檎を振舞う一式はいつでも準備してきたのだ。――ついに、今年はじめて林檎を振舞うことができる、とうきうきする私に、一瞬目を丸くした王子くんだったけれど、すぐにいつもの余裕のある表情に戻る。

「まさか、ぼくがはじめてかい?」
「さすがだね、そうなの。去年林檎を渡したのが王子くんだけで、今年も林檎を振舞うのが王子くんがはじめてなんて不思議な縁だね」
「……そうだね、光栄だよ。今年はみんなに林檎を配りそうな勢いだから、寂しいと思っていたところだよ」
「そんな大げさな」
「本当だよ。なんていったっての林檎だからね、普通の林檎とは違う」
「そんなに買い被ってもらって、こっちこそ光栄です」
「ふふ。こんな風に林檎を振舞ってもらえるなら、お見舞いも悪くない」

 そんな軽口をたたきあいながら、私は林檎を剥いていく。くるくると綺麗な弧を描いて紙皿に落ちていく林檎の皮。林檎本体を切り分けて、フォークを刺す前に、ハンカチで手についた果汁を拭こうとした時だった。
 私の指についた林檎の果汁を、流れるように自然な仕草で口に含んだ王子くんは、私の心を掻き乱したことを確信したように、「やっぱり、甘いね」と青緑の綺麗な瞳をゆるやかに細めて、密やかに笑った。



りんごジュースはとてもすなお


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