私は、震える手であわててメッセージアプリを立ち上げて、友人にメッセージを打とうとした。けれど、いざ文言を打つとなると、なんていう言葉で気持ちを伝えるか悩んでしまった。
 どきどきと早鐘のように打つ鼓動が耳にまで響くのを感じながら、小さく震える手を眺める。
 “やばい”、“どうしよう”、どれも陳腐な気がしたが、興奮する気持ちを表すのはやっぱりこういった文言が一番のような気もする。
 一番のような気もするが、自意識過剰な自分がそっと頭の中でささやく。もし画面を見られていたら? もうちょっと知的な言葉を使うべきかもしれない、そんな馬鹿なことまで考えて、私は横目でちらりと隣のテーブルを盗み見る。
 
 ――“あの「太刀川慶」が隣にいる。”
 
 結局送信したのは、一番自分の心情を表している文章だった。

 「太刀川慶」というのは、この三門氏を襲う近界民から町を守るための組織、ボーダーに所属する隊員である。
 私たちは、町を見下ろすようにそびえたつボーダー本部を見ながら、いつ現れるか分からない近界民におびえながらも受け入れるという奇妙な生活を毎日送っている。
 住民を守るために、身を挺して近界民と戦ってくれているボーダーの隊員。彼もそのうちの一人だ。
 どうして一般人の私がそんなことを知っているのかというと、つまり、ボーダーは広報にも力を入れているからである。
 代表的なのが、嵐山隊だ。実力も兼ね備えた彼らは、ボーダーの顔として表舞台にたくさん登場している。実際に身の回りでも彼らのファンがたくさんいて、グッズも欠かさずに買っている友人もいる。隊員の人気を、町を守るための活動資金のひとつとしているボーダーというのは、まったく抜け目のない組織である。そんなボーダーに所属する「太刀川慶」は、あからさまに表舞台に出てくることは少ない隊員だった。
 そうした「太刀川慶」と私の出会いは、テレビのニュース番組だった。
 近界民との小さな戦闘、それがニュース番組で放送されたとき、その近界民を切って捨てたのが彼だったのだ。黒いロングコートにスラリとした刀身、鮮やかなその身捌きに目を奪われた。それ以来、ボーダー関連のテレビ放送は欠かさず見るようにして、何とか名前を知った。
 ただ彼は、嵐山隊のように表に出ることは多くないので、私にとっては芸能人と同じ、遠い世界の存在だった。
 
 ――その「太刀川慶」が、太刀川慶として、私のテーブルの横に存在している。

 時刻は夜。周囲では大学生たちがわいわいと楽しそうに青春を謳歌している。そう、居酒屋である。私も例にもれず、友人と青春を謳歌するため居酒屋にやってきたものの、“ごめんね、ちょっと遅れる”というポンっという通知音とともに示されたメッセージによって、ひとり待ち惚けをくらっているのである。
 そして、かくゆう彼もそうなのか一人でテーブルに座っている。これからボーダーの他の隊員たちと飲み会があるのかもしれない。
 どきどきとした動悸が、どんどんという激しいものに変わっていくのが分かる。こんな機会は二度とないかもしれない。握手やサインをお願いしたい気分だ。でも、いきなり話しかけたら変に思われないだろうか。いや、思われるに違いない。逆の立場で考えて、同じ大学生の年代の人物が、いきなり「握手してください」なんて話しかけてきたら、私ならひいてしまう。
 ぐるぐると思考回路を回しながら、友人に相談しようとした時だった。
 相変わらず興奮で小さく震えていた私の手から、スマートフォンが滑り落ちた。喧噪の中、コンという小さな衝撃音が響く。「あ」と思わず漏れた声に、「太刀川慶」がこちらを向いた。

「はい、これ。どうぞ」

 我知らず息を呑んで固まっていた隙に、彼が私のスマートフォンを拾い上げ、手渡そうとしてくれている。

「あ、ありがとうございます」

 そう言って、手を伸ばした瞬間だった。彼の目線が私のスマートフォンに止まって、そのまま離れなくなった。
 まずい、と思ったときには、もう手遅れだった。今度は血の気が引く音がする。

「『あの「太刀川慶」が隣にいる』?」

 胡乱げな瞳が私を映す。

「あっ、わたし……!」

 頭が真っ白になる感覚へと陥りながら、とっさに私は、スマートフォンを彼から奪い取った。驚いたような気配を感じたが、恥ずかしさでそれどころではない。それどころか、一刻も早く彼の前から消えてしまいたいという欲求が一番になる。
 即座にかばんを椅子から勢いよく取って、私はそのまま居酒屋を走り去った。この時ほど遅刻をした友人のおかげで、何も頼んでいなかったことに感謝したことはない。

 ***

 あれから数日。落ち合うはずだった友人に謝罪をして、私は日常生活に戻っていた。
 憧れだった「太刀川慶」との出会いと、最悪の展開。
 あの時の彼の視線を思い出しては、何度も何度も頭の中で気まずさがフラッシュバックして私を苦しませていたけれど、胃の中をひっくり返したいほどの失敗談も友人に話せば笑い話になってしまっていた。そうして笑い声が失敗を上書きする度、少しずつ気が楽になっていたころだった。
 “今日は学食のいつもの席で集合ね”、聞きなれたポンっという通知音が今日のお昼の予定を知らせる。午前中の講義を済ませ、私は予定通り学食に向かった。

「やあ」
「なっ……」

 そこにいたのは、太刀川慶だった。
 慌てて周囲を見渡してみても友人はいない。タイミングよくポンっと音が鳴る。抜き差しならない状況でちらりと覗き見た画面には“ごめんね”、“でも、せっかくの機会ものにしなよ”という友人の暴走した親切心が表示されていた。何となく状況を察しつつも、私はか細く問いかける。

「どうして、ここに?」
「“あの太刀川慶”が?」
「……! ごめんなさい」
「あの後、やってきた友達さんに聞いた。いろいろと」

 目の前の太刀川慶は、いままで見たことのない生身の表情で、にやりと笑った。その笑みに見惚れると同時に、あのメッセージを送った友人のことである。すべて知られているに違いない、と諦めて状況を受け入れる。

「ご存じかもしれませんが、私の名前は――」
ちゃんでしょ? で、俺のファン」
「……そ、そうです」
でいいか?」
「は?」
「呼び方」
「呼び方……?!」
「俺はこないだの件でお前が気にいったよ。あんな面白い場面中々ないね」
「うっ」

 目の前の太刀川慶の圧力に負けて、つい連絡先を交換してしまった。

 ***

 生身の「太刀川慶」は、私の中で太刀川さんになった。
 そして生身の太刀川さんは、大きく私の予想を裏切る人物だった。私がファンだった「太刀川慶」は太刀川慶だったけれど、それは一部分だったのだ。
 スマートフォンが着信を知らせる。

「おー、。そっちの課題なに?」
「課題ですか? 大学違いますよ」
「そんくらい知ってるよ。パクれるとこないか考えんの」
「はぁ……」
 
 私の中の「太刀川慶」は、あのニュース番組に出てきた時のように、ロングコートを翻しながら近界民を一太刀で切伏せる、そんな有能で豪胆な人物だったはず。決して、単位を落としそうになってあたふたしている人物ではない。
 だけど、なぜか私は完全に彼に失望することはなく、彼も私に飽きることなく、奇妙な友人関係は緩やかに続いていた。私のファン歴のことを揶揄して太刀川さんからテレビに映る自慢がきたり、日常生活における漢字の読み方の問い合わせがきたり、他愛ないやり取りを交わしていた。
 私はためいきをついてから、太刀川さんに提案する。
 
「私で手伝えることがあれば手伝いますよ」
「おっ。さすが優等生」

 私は普通です、とも言えずに言葉を飲み込む。
 この後、集合場所にファストフード店を選んで集合することになった。仕方ないなと思う反面、心が弾む。
 急いで待ち合わせ場所に到着したときには既に太刀川さんが席に座っていた。

「太刀川さん、お待たせしました」
「お待たせされました」
「何ですか、それ」
が来るまでレポートに苦しめられていたんだよ、俺は」
「自業自得では……?」
「なんでだよ」

 拗ねる太刀川さんは、とてもA級1位のチームの隊長だとは思えない。そんな太刀川さんに思わず苦笑いを零しながら、太刀川さんの目の前に座る。
 かばんを荷物置きに置きながら、ふと見えた太刀川さんがじっとこちらを見つめているものだから、どきりと胸が鳴る。それを悟られないように髪を耳にかける動作で顔を隠しながら、太刀川さんに問いかける。

「今回はどんなレポートですか? 私にわかるものだったらいいけど」
はすこし馬鹿だな」
「は……?」
「将来、絶対悪い男に引っかかるタイプだ」
「ど、どうしてですか?」
「今、俺に引っかかってるから、って言ったら?」
「引っかけられてるんですか、わたし」
「引っかけてるよ」

 挑発的なまなざしに、ぽかんと呆気にとられる。これも初めて見る生身の太刀川慶だ。
 癖のある茶髪ごしに射貫かれて、言葉が出ない。

「付き合ってみるか俺たち。意外とうまくいくかも」
「そ、そんな簡単に……?!」
「そうだな、そんな簡単にものになってもつまらないか。じゃあ、これから俺が迫るのを楽しみにしておいてくれ」

 そう言うと太刀川さんは、ふんふんとご機嫌でレポートについて語り始めた。
 私は頭の中で太刀川さんとの会話をリフレインしていた。たしかに勉強が苦手な太刀川さんの役に立てればいいなと思って、いろんな手伝いをしてきた。それが悪い男に引っかかると言われれば、当てはまらなくもないと思う。これから太刀川さんの言うように本当に付き合って、もし迷惑を掛けられたとしても、それでも構わないと思う自分がいる。太刀川さんといると心臓が休まる気配がない。初めて出会ったあの日のように心臓がどんどんと煩く叫びはじめるのを聞いて、本当に自分は馬鹿だなあと思った。


嗚呼、麗しの愚者よ!


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