執務室に向かう長い廊下を歩く二人分の足音が反響する。先頭を歩く男はわざとらしく鼻歌を歌っている。もう一人の女性――は、あたかも困り果てた哀れな従者、という雰囲気を漂わせながら、最もそれらしく見える態度で主の名を呼んだ。そう、とは心の中で独り言ちる。決して演技は下手糞ではない。

「頼光様」

 が頼光と呼ぶ黒髪の少年に嘆願する。

「なに?」
「仕事が残っております」

 は臍を噛む。この主と二人の日に限って、内部の仕事を請け負うこととなるとは。さらに、主でなければ処理できない書類が渡辺様のいないこんな日に限って多い。それに加え、今日処理を終えないといけない書類も。そうでなければ、わざわざ主を不機嫌にさせるような言葉を吐くことはない。
 案の定、主は露骨に表情を変え、苛立ちをその瞳に乗せた。反面、口元は笑みを湛えている。嫌な予感。は、これから自らに起こりうるであろう事態を想像し、諦念のため息がこぼれそうになるのをぐっと堪えていると、知ってか知らずか「あーあ」とわざとらしいため息が聞こえる。

「渡辺もお前も僕を過労死させるつもり? まったく酷い部下だなァ」
「そんな――」

 つもりは。当たり前のように放たれるはずだった言葉は乱暴に途切れる。唇から出でる言葉を塞ぐものは、我らが大切な主の掌だ。

――少年と、青年の間。

 精神は未熟なくせに、力だけは持っている。
 心が圧される感覚に思わず顔を顰めかけたが、決して表情は崩さない。表情を崩しでもしたら、暇を持て余した少年に見つけられた玩具のように甚振られるに違いない。少し心を落ち着けてから、はその手を掴んで引き離した。

「頼光様。過労死などど。私はそんなつもりで言ったのではございません」
「ふうん。それで?」

 にやにやと、そうその笑みを形容するのは部下としてはあまりに礼を欠いているかもしれない。けれど、あまりに適当な表現に違いない。そう、は自らの演技が下手糞であるつもりはない。ただ、この主を相手にすると全て見透かされているような気がしてならない。


――少年と、青年の間。

 もう無邪気ではないくせに、上手くそれを潜めている。どうにも、はこの主を慕う気にはなれなかった。

「今、仕事を溜めてしまわれれば、後が更に大変になるでしょう。そのせいでお体を壊されては元も子もございません。……お分りくださいませ、頼光様」
「お前がそこまで言うなら、ねェ? 聞いてあげないこともないけどさ」

 濃く染まるその笑みに、胸に浮かぶ苦い感触。努めて忠実な従者の表情を浮かべて、聞きたくもない言葉を聞く姿勢を整える。思わず顰めそうになる表情を自制する。

「お前の無表情を見てるとさ、無性に歪めたくなるのはどうしてだろうね?」
「……そのようなことは初めてお聞きしましたが」
「初めて言ったもん」
「頼光様の気分を害するようであれば、直すよう努めます」
「やだなァ。僕の楽しみを奪うの?」

 先ほど引き離した手が再び、に触れる。静かに、捕まれる手。まるで慈しむように自分の手をなぞる主を息を潜めて、見つめる。自分の手にその爪が沈み込んだ。赤い液体がするりと皮膚を伝う。

「僕はこんなに部下を愛してるのになァ」

 まるで無邪気な笑み。その奥に潜む邪気にもう耐えられそうにはなかった。

 (この餓鬼)

 今度こそ思い切り、顔を顰めてやった。




義務